植物になりたい

連れ合いと小石川植物園に行ってきた。言わずと知れた、東大の研究用施設である。

とは言え、中はピクニックに向いた平原、小ぶりのものや熱帯のものを育てる整備された温室、様々な木が植わっている森、そして瀟洒な洋館を望める日本庭園という、行楽地として非常に充実した、都心のオアシスとも言える空間だ。

 

 連れ合いと私が気に入ったのはシダ園だった。ネットをかけられ、石壁に囲まれた鬱蒼とした植物園の外れ。レースを思わせる繊細な緑葉が、地を這うようにあちこちから生えている。じめじめ、という言葉がよく似合う光景だった。

けれども、そこに漂っているのは、沈鬱さではなく、淡々とした自由のように見えた。植物園であるから当然、1つ1つの植物がのびのびと育つように計算されて、間隔を適切に保たれて植えられているというのはあるだろう。しかし、この小さな空間で多くの種類がひしめき合っているというのは事実で、でも植物たちは葉が触れ合うのも何かの縁とばかりに、ただただ静かに植わっていて。無論、彼らの空間に入り込んできた私たちに関心を払うこともない。

植物はある場所に植わってしまえば、そこから移動の自由はない。確か、星新一の小説に主人公の妻が植物に変身し始め、街路樹となっていくことが自由を奪われていくものとして描かれていた話があったような気がする。それを読んだ時、植物になるとはなんと怖いのだろうと思った覚えがある。

 鬱蒼と見えたシダも、その葉の繊細さ、鮮やかさに気が付けばとても美しく見える。しかも、自分以外の存在と交渉を持たない静謐なさまは「社会」というものに囚われた人間の私からすればとても自由にも見えて、「植物になりたい」という思いを呼び起こす。星新一は植物になるということを悪夢的に描いたが、一方、それを美的な夢として描いた作家に佐藤春夫がいる。

 

 佐藤は自身の美意識を追求した大正期の作品で文学史上に名を残しているが、植物化の夢を書いたのは昭和初期に発表した「のんしやらん記録」というSFである。いわばディストピアとも言うべきこの作品では、主人公がとある理由から薔薇に変身し、これが快いこと、そして美的なものとして描かれる。人間の植物変身譚は古くはアポロンとダフネーの神話から存在するが、近代で言えば、アール・ヌーヴォーの想像力がそこに与するだろう。

 アール・ヌーヴォーは19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパで

流行した視覚芸術の様式だ。アール・ヌーヴォーと言えば、すぐさまアルフォンス・ミュシャのうねるような髪を持つ女性像や、植物紋様の装飾などを思い起こすかもしれない。まさに、植物そのものや、それが持つ有機的な曲線を美的なものとして掲げたのがこのアール・ヌーヴォーという芸術潮流なのである。

 ミュシャ自身はアール・ヌーヴォーの作家と見做されることを厭うていたが、画面を植物紋様で美しく縁取り、女性たちを、植物を思わせる曲線で描いた彼の想像力がアール・ヌーヴォー的であることは疑いえない。そして、彼よりも一歩踏み込んだ想像力を見せる作家たちも存在していて、例えば顔は人間だが髪や下半身が薔薇であるといった、植物と一体化した人間を描いた絵を残している(数は多くない)。

 つまり、言ってしまえば、アール・ヌーヴォーは人体を植物の曲線美によって再構築した想像力なのである。そこには、植物の美しさへの憧れと、人体と植物の融合への夢が展開されている。佐藤春夫の薔薇への変身もこれに類する(しかし、物語後半では薔薇であることが悪夢としても描かれるので、そこには捻じれがあるのだが)。

 

 とすれば、人間である私が、その美しさに魅せられて植物になりたいと思っても何の不思議があろう? 21世紀、都会の真ん中で私はアール・ヌーヴォーの夢をうつらうつらと見ていたのだった。