ミュージカル『黒執事~寄宿学校の秘密~』観劇レポ・感想

ミュージカル『黒執事~寄宿学校の秘密~』観劇レポ・感想

※紫寮>>青寮とセバスチャン>>赤寮>その他ぐらいで偏ってます。

※舞台内容について一切伏せてません(原作も30巻までのネタバレあり)。

 

〈目次〉

【観劇時・鑑賞者の前提】

【曲目及び芝居の流れ】

【各キャラの印象】

【舞台の感想いろいろ】

◆チェスロックとバイオレットの親密性(紫寮備忘録)

◆P4の悲劇性に血が通う

◆グランドミュージカルから2・5次元ミュージカルへの路線変更

◆楽曲・舞台装置・照明

 

 

【観劇時・鑑賞者の前提】

・初日映像配信を3周→3/9ソワレ、J列センブロ寄りにて観劇(最終的に映像は5周した)。

・原作は既刊分読破済み。

・これまでの黒執事ミュは、古川セバスの3本をブルーレイにて鑑賞済み。

・2.5次元舞台文化にほとんど馴染みはなく(テニミュあんステはかじり、『やがて君になる』をフルで鑑賞。双方映像)、もともとは東宝劇団四季系のミュージカルを中心に演劇を観てきた&有名作は一通り観劇済みor CDを聴いてる方のオタク(近年は色々あり芝居から離れていたけどぼちぼち観劇趣味を再開したい)。古川セバス時代のグランドミュージカル感が好きで、原作からしテニミュだった寄宿学校編は行くのを結構考えていた(テニミュの感じも好きだけど、黒執事舞台として好みに合うかどうかはまた未知数だったので)(けど、配信を観て沼にすぼすぼと……)。

・特に推しのキャストはなし(全員初見)。

・青春を、主にスタッフとして芝居作りに捧げてた(ので、装置や照明、転換の仕方とかめちゃくちゃ気になる)。

 

【曲目及び芝居の流れ】

※数字が曲、()括弧内が芝居部分。

※曲の正式タイトルは分からないので、私が勝手につけてます。

 

①黒ミサ/シエルとセバスの契約

~これまでの黒執事ミュ振り返りメドレー(リコリス/サーカス/カンパニア)

~シエルとセバスの主従関係

(女王から潜入捜査を命じられたことの説明)

②オーバーチュア

(シエルの入学準備、セバス、シエルの成長を喜んでみせると「酪農家が牛や羊の成長を喜ぶの同じだろう」と言われる)

③ウェストン校の伝統(シエルの入学式)

(シエル、芝生に入る)

④憧れのP4(監督生の特権が憧憬を込められて歌われる/各寮紹介)

(女王からの手紙を詳細に読む

~食堂にてファッグの習慣の説明)

⑤ファッグ代行セバスチャン

(クレイトン、シエルを褒める

 ~白鳥宮のP4茶会、シエルが噂される

 ~モーリス、シエルを茶会に誘う/シエル、セバスに菓子を命じる

~茶会に遅刻、P4の不興を買い、校内で孤立

 ~シエル、セバスと作戦を立てる)

⑥ソーマ入学

(シエル、ソーマにモーリスとの仲立ちを頼む

 ~ソーマ、モーリスを追いかけまわす

 ~セバス、ゴミ漁り

~シエル、モーリスを追い詰め、P4に認められる。ソーマ、象を本当に連れて来たらしい。

~シエル、クレイトンにファッグの契りを申し込まれ、受ける。

~寄宿学校への入学~デリック探しの目的が再度示される。

 ~白鳥宮での茶会

・レドモンドの新たなファッグ・ハーコートが紹介される

クリケット大会の話、前夜祭きっかけにリジーとシエルの進展が話題になる

・バイオレットの画才が示される

・シエル、デリックについて探りを入れる

 ~シエルとセバス、デリック探しの進捗報告)

⑦P4の秘密と覚悟(伝統のためなら我らは死ねる)

(シエル、マクミランとの語らい)

⑧シエルの悪夢

「悪の貴族/あくまで執事、演じ続ける、復讐遂げる/魂引き取るその日まで」

(セバス、アガレスに探りを入れる/アガレスの手に血が通ってないことを不思議に思う。

~シエル、青寮生にデリックについて尋ねる。しかし、セバスもシエルも「転寮は校長が決めたこと」という返事ばかり貰い、苛立つ。デリックに直接接触するしかないと考える。

⑨どこに消えたデリック・アーデン

(シエルとセバス、作戦会議

~マクミランとソーマ、クリケットの練習に誘ってくる

~P4、校長に会えずに苛立つもクリケット大会で会えることを期待/シエルとセバス、「真夜中のお茶会」招待を狙うことにする)

⑩ 4 of June(フォースオブジューン)※決戦の日として歌われる

 

〈2幕〉

クリケット大会入場

(開会宣言、試合開始)

⑫青寮対赤寮(レドモンド、クリムゾン・トルネード披露)

(休憩のお茶会、赤寮は下剤入りミートパイを食べる

 ~試合再開、腹痛にて赤寮退場。青寮の勝利

 ~紫寮対緑寮の試合開始)

⑬紫寮対緑寮(ヒプマイ)

(緑寮、勝利)

⑭青寮対緑寮(エド:フルリスペクト/ブルーアー:抜けない聖剣/シエル:断崖のタクティクスを披露)

(青寮、勝利)

⑮ボートパレード

(シエル、セバスから手当てを受ける

 ~ブルーアーから真夜中のお茶会へ招待される)

⑯真夜中のお茶会

(シエル、デリックの件を追及

 ~ビザール・ドールと化したデリックが登場、グリーンヒルを襲う

 ~セバス、デリックを取り押さえる

 ~P4、デリックを殺したことを告白

 ~P4が監督生になった時の回想、デリックの悪行を知る)

⑰デリック殺し

(ブルーアー、シエルに理解を求める。しかし、シエルは批判

 ~アガレス登場、セバスと殺陣)

⑱葬儀屋とセバスの死をめぐるデュエット

(葬儀屋退場

 ~セバス、「掠め取られてはたまらない」

 ~セバスとシエル、屋敷に戻る

 ~セバス、「悪魔しか信じるもののない哀れな坊ちゃんに甘いケーキでも焼いて差し上げましょう」

 ~幕、カーテンコールで序曲の短いリプライズ)

 

【各キャラの印象】

※「ミュージカルとして、あるいは寄宿学校編のメディアミックスとしてどうだったのか」という観点から良かったところ、演技や演出で気になったところ両方書き留めている。

※全体の印象の他に、個別の演技や場面に関しての感想は、★で箇条書き(だいたい舞台の進行順)。

※○囲いの数字は、先述の曲目の番号。

 

  • セバスチャン

個人的に古川セバスが好きすぎて、立石セバスはどうなるかな〜ってどきどきしてたんだけど、古川さんがガチ獣系セバスなのに対して、立石さんは聖母みたいなセバスだった。セバスだから嫌味はもちろん言うけど、「仕方ないですねえ」と言いながらシエルを甘やかすのを楽しんでいそうな、妙に慈愛のあるセバスだった。古川セバスは虎視眈々とシエルの魂を狙ってるし、いつも飢えた顔してるけど、立石セバスはあんまり食欲は感じてなくて「私が坊ちゃんを美味しく育てました、まだまだ育てます」っていう農家の顔してた印象。舞台冒頭、シエルに制服を着せて「坊ちゃんの成長を感じて嬉しい」的なことを言うセバスに、シエルが「お前の感覚は、飼っている牛などの成長を喜ぶ酪農家と一緒だ」と言っていたけど、まじで酪農家の聖母系セバスだった。

立石セバスは圧倒的にビジュアルが美しくて、特に寮監姿は本当に彫刻のようで個人的に「歩くベルニーニ彫刻」って呼んでる。聖母的な雰囲気がすごすぎるので、そもそもセバスが一回“死”を体験したシエルをその懐に抱いて復活させた、という原作の関係性もあるしで、シエルを膝に抱いたピエタやってほしい、悪魔が聖母のように人を抱く倒錯的なピエタを……。古川セバスは、(原作9巻でセバスがドイルに言われていたように)オスカー・ワイルドに出てきそうだけども、立石セバスは礼拝堂に彫刻として居る。

★ファッグ代行曲の導入部分、シエルに命令された時に一瞬不服そうな顔をする→明るく「イエス、マイロード!」という流れが若干不自然な感じがした。セバスなら嫌味の一つでも言うか、肩をそびやかしてから返事しそうなイメージがある。でもファッグ代行曲全体は、明るくて楽しかったし、セバスがお茶目で可愛かった。「また私ですね」とちょくちょく嫌味言ったり、しまいには「このくそがっ……」と口走しながら、素直に「イエス、マイロード!」と言って仕事してあげちゃうの、ほんと面倒見の良いセバス。流石酪農家で聖母。

★シエルがソーマにモーリスとの仲を取り持ってほしいと頼むシーン、二人の後ろで微妙ににやにやしてるの、セバスらしい性格の悪さが出てて好き。シエルが「僕が根暗で卑屈なばかりに……」という台詞を、ソーマ、次いでセバスが復唱していって、シエルが「おい」と怒っているのも地味に可愛い。

★立石セバスは本当にお茶目で、ゴミ漁りのシーンとか、ミートパイを差し入れにくるシーンとか大好き。あの美しい容貌で魚の骨を見つめているのもシュールで愛おしいし、自分で「全く……この私にこんな命令をするなんて歴代の主の中でも坊ちゃんくらいなものですよ。ふつう、こんなに忠実で、こんなに有能で、こんなに容姿の整っている私にゴミ漁りなんてさせますか、全く!」と真面目に言っちゃうのも、なんだかんだ言いつつも「明日が楽しみですね」と言って(何故か、本当に何故か)ゴミ箱の中に戻っていくのもコミカルで好き(いやほんと何で戻るの??)

 ミートパイ差し入れシーンも急に制服コスプレで「遅刻遅刻ゥ~!!」みたいな謎モーションで現れて去っていくのも良かった(これが面白すぎてうっかり注意を払ってなかったけど、ここの制服コスプレめちゃくちゃレアなんだよね……)。古川セバス時代もコミカルなシーンはあったけど、古川セバスは「本当に滑稽ですね」的なお顔をしてた一方、立石セバスはわりと素直に楽しそうにしててお茶目度の高いセバスだった。と思ったら、立石さんがパンフのコメントでセバスのことを「お茶目」と評していて、セバスチャンというキャラクターの人格のなかでその部分が、立石さんにとってすごく印象深かったことが窺えて妙に納得した。古川セバスは妖艶な悪魔で格好いいという印象だったけど、立石セバスはひたすら可愛い。

★シエル悪夢の場面で、アンサンブル蠢く暗い舞台に青い照明がカットインしてセバスが急に姿を現す演出がめちゃくちゃ好き。ここのセバスはずっと悪魔感あって格好良い(原作・アニメのセバスの悪魔顔が好きすぎて悪魔セバスコレクションしているぐらい悪魔セバスが好きなのでここのセバスは本当に好きだった)。悪魔セバスと言えば、今回は赤いカラコン入れてて時折目が赤くなっているの格好良くて好き。セバスの人外感好き。

★立石セバスは酪農家で聖母だから、(常に餓えた顔してる古川セバスに比べると)シエルに対して非常に禁欲的なキャラクターになっていて、舞台終盤、シエルの頭を掻き抱くようにして「せっかくここまで育ててきたんです、掠め取られては堪らない」と欲望を露わにするシーンは、それまでとのギャップが凄かった。初日配信で初めて観た時は若干唐突感があるというか、私の中でそれまでのセバスとうまく結びつかず、観直してみても、立石セバスと小西シエルの美しい顔がアップで映り、本当にお耽美すぎて受け止めきれなくて混乱した結果、観直す度に笑ってしまうほど冷静に受け止められず……ほんともうダメ……三次元の男性が美しすぎて困るとかこんなことって世の中にあるのかよ……。

 けれども、6周目でやっと「あっここ凄く良い」と腑に落ちた(配信が終わる夜に滑り込みで観ていた時のメモに「立石セバスの顔に免疫が出来た」とメモしてあって笑う)。免疫ができる前は、セバスのシエルに対する欲望(魂を食べたい)は、なぜセバスがシエルに服従しているのかという理由の説明として必要だから舞台のどこかで入れる必要があり、しかもこの場面はきちんと原作にもあるので、ここでセバスの欲望を語らせるとか、欲望を露わにした演技をするとかは、芝居のプランとしては全然間違ってなくてめちゃくちゃ正解ではあるし、一方でこれまでずっと禁欲的だからこそ、ここで一気に欲望を露わにするのが良いのかな~とか理屈で捉えようとしていたのだけれども、それも踏まえて観直すと納得できたので良かった。今まで禁欲的だったのにいきなり欲望を露わにして美少年に絡みつく美形の悪魔、倒錯的すぎて最高だよ……。ここは、小西シエルが雰囲気に流されて恍惚とするのではなくて本当に動揺や怯えを感じているのも良かった。セバスを危険だと感じながらも復讐のために飼い慣らしている坊ちゃんが好き。

 因みに、9日ソワレでは、立石セバスの荒い吐息まで聞こえてかなり欲望の度合いが強くなっていたので、千秋楽だとどうなっているのか楽しみ。

 

  • シエル

 小西シエルは外見と演技がすごく良い。成人役者ということで周りとのバランスがどうなるかなと思っていたけど、普通に小さな少年という感じだったし、お顔がとても美少年だった。しかも、セバスと色々策略を巡らす時の怠そうだったり、苛立っていたりする表情がとてもシエルで好き。今回の小西さんの芝居のなかで一番上手いなーと思ったのがこの表情の作り方だった。眉の可動域がすごい。

ただ、歌ったり、張り上げたりする時の声が結構ハスキーで、シエルの声とは少し系統が違うかな?というのが個人的な感想。けれども、少しイメージの違うものが現れて、それがやがて役者の力で1つのキャラクターとして成立していくというのも舞台の醍醐味なので、ハスキーシエルとして愛でたい。

ただ、やはりミュージカルなので歌の不安定さやダンスのキレが弱めなのが少し気になったのだけれども、舞台経験はそんなにないとのことなので、舞台での歌やダンスにもっと慣れていって素敵な役者さんになっていってほしい! 千秋楽のシエルが楽しみ。

 

  • 葬儀屋

 前作まで和泉さんが演じて非常に印象的だった葬儀屋。和泉さんの葬儀屋が渋めで老獪なイメージがあったのに対して、上田さんの葬儀屋は爽やかだった。

★個人的に、今回の葬儀屋は演出が印象に残った。序曲でみんなと一緒に歌って踊っているのもそうだし(葬儀屋、踊るとほんと格好いいヴィジュアルしてるよね)、シエルの悪夢の場面で卒塔婆→大鎌と持ち返るところも面白かった(映像で観てどうやっているのか気になって、生観劇で確認したら、卒塔婆を地面と平行に倒す→アンサンブルの方が持っている同じく地面と平行に倒した大鎌をスモークのなかで交換するというやり方で工夫がすごい)。

★二幕後半のお茶会でのセバスチャンとの掛け合い、すごく綺麗だった(テレビのスピーカーや生だと二人の声が重なっているのがあんまり上手く聞き取れなかったんだけども、イヤホンで聴いたらすごく良かった)。

★お茶会ラスト、葬儀屋が姿を消す暗転時に、白いライトが舞台から客席に走る演出、疾走感があって良かった。

 

  • ソーマ

サーカス編舞台の線細めのソーマの印象が強かったので、それとは全く系統の異なるソーマで予想外というか、びっくりしたのが第一印象。けれども、確かにソーマの天真爛漫さを突き詰めるとこうなるというか、現実にいたらこういう感じかな?という説得力が、観直す度に増していった。2.5次元舞台であるので個人的にはもう少し原作ソーマと顔の系統が近いと嬉しかったが、そこを役者の力で独自のキャラクターとして成立させてて、なんかもう岡田さんの勝ち!笑

また、カンパニーの中で一番年長とのことだが、(滑舌や発声の安定さに課題が残る)若手俳優たちに比べて抜群に歌が上手く、安定感がある。現実には役者としての経験やスキルの差だが、それがキャラクターと結びついて「寄宿学校という鳥籠でもがく子羊たち」と「ベンガル藩王子」の風格の違いとして立ち現れるのも舞台ならではの面白さ。

初日では、ちょっと語尾の調子が強いかな?と思っていたんだけども、9日ソワレでは既に落ち着いたトーンに改善されててよりソーマらしくなってて良かった。

★登場曲、ソーマのプロフィール詰め込みすぎて思わず笑ってしまったんだけども、回想の「俺が宮殿に独りなのは 親父様 母上のせい(…)本当は自分のせい」という部分が、ライティング、曲調、岡田さんの表情全部好きだった。寄宿学校編ではひたすら明るいソーマの陰りが一瞬見える良いパートだった。★登場曲の最後、「おい、従者連れは禁止じゃないのか?」「あれはソーマ様の脳内イメージですよ」というシエルとセバスのやり取りもコミカルで好きだし(ここ立石さんが諭すような口調なのが本当に良い)、この台詞によってソーマが「校則違反を厭わない傍若無人なインド王子」ではなくて「校則はきちんと守る、底抜けに明るい賑やかなインド王子」というキャラとして定義づけられてて、これも好きだった。

★一幕後半、シエルがクレイトンとファッグの契りを交わしたあと、(暗転始まるので若干分かりにくいのだが)花を受け取ったシエルの肩を抱いて喜んでるの可愛い~俺はシエルの親友だからな~!!

 

  • エドガー・レドモンド

 P4とそのファッグたちは、この舞台版でそれぞれの役者によって血肉を与えられ、本当に生き生きとしていた。レドモンドももちろん、その一人。

レドモンドはドルイット子爵の甥という設定であり、彼が監督生を務める赤寮は優雅であることをモットーしており、原作ではあくまで「優美な美青年」的なキャラクターであった。けれども、佐奈さんが演じることで、レドモンドは、非常に人間臭く、優雅さばかりではない、どこか影のある青年になった印象を受けた。

何故そういう印象になるのかと言えば、原作ではあまり見られなかった憂鬱な顔が舞台ではすごく良く出てくるからだと思う(原作でもあるにはあるのだがお顔のきらきら感の方が印象的)。細かくは後のP4の演出についての部分で触れるが、舞台では舞台冒頭からP4がある秘密を抱えており、しかも苦悩していることがかなり強調されていたためにレドモンドが憂鬱そうな表情や、切なげな表情をする場面が多かった(P4の憂鬱を歌う⑦や、一幕ラストの⑩では本当にずっと辛そうな顔していて、この鬱顔レドモンドとても好き)。しかも、佐奈レドモンドの憂鬱ないし切なそうな顔は本当に陰りが深くて、それがレドモンドの印象を一気に人間臭くし、そのことによってキャラクターとしての奥行きが生まれたように感じる。

原作のレドモンドはドルイットと同じように、キラキラかつ飄々と生きて生きそうだが、佐奈レドモンドはこの後、爵位を継ぎ、賑やかな社交場から帰った夜、独り寝室で溜め息を吐いてそうな、優雅さの裏に苦労を背負ってそうな、そんなイメージがある(この後は放校処分を受け、おそらくほとんど勘当状態なのだろうが)。

★白鳥宮お茶会1回目。シエルを呼ぶことになり、ブルーアーがレドモンドに「お前が僕をファーストネームで呼ばないならいいぞ」と言うも、レドモンドは「はいはいはい」とめっちゃ雑な対応してたの笑う。

★シエルが遅刻したお茶会で、あえてシエルにぶつかって退場していくの、本当に意地悪で好き笑。

★シエル参加のお茶会場面、日替わりなのか、バイオレットに変なポーズを強要されているグリーンヒルに、初日ではラケットで腹を叩いていたところを、9日ソワレでは尻の脇を音が出るほど勢いよく叩いていたのは容赦がなくてレドモンド……茶会に遅刻したシエルに肩ドンしていくのとか本当にところどころ容赦ないよな……。

★ミートパイを食べる場面、初日では美味しいねぐらいのことしか言ってなかったのに、9日ソワレではソーマとハーコートの関係を勘ぐったレドモンドが「お前まで俺を裏切るのか?!」といきなり怒り始め、ハーコートがぽかんとしているところへ「なあ、俺のこと、好きか?」と真剣に問いかけ、ハーコートがよしこれさえ言えば……!というテンションで「大好きです!!」と言う流れがあった(内野さんがわりと素でびっくりしてたっぽいからアドリブ?)。その直後、ソーマに「大丈夫か?」的なことを聞かれて、「あ、うん、何か良かった!」(満面の笑み)と答えてて、突然の情緒不安定に初心な後輩を巻き込むレドモンド。人間臭くて好き。

クリケット大会で腹痛に襲われるシーンも、「美青年キャラにキャスティングされてまさかこんなことやるとは思わなかっただろうなあ」というレベルで、えげつなかった(佐奈さんが本当にえげつなくやってくれてめちゃくちゃ笑った。震える脚の動きが過激で大好き)。

 

  • モーリス・コール

 めちゃくちゃモーリスだった!笑。ぶりっ子と柄の悪さの落差がすごくメリハリついてて良かった。シエルに薔薇のカードを突き付けられた時の、動揺顔が好き。「しまった!」でもなく「悔しい」でもなく、ただシエルの追随に動揺する顔。

 

 いつもニコニコしていて本当に可愛い。演技としてというばかりではなく、内野さん自身が舞台に立っていることが楽しい!という気持ちが伝わってくるようでとにかく可愛い。

★赤寮対青寮の時に、一回転ジャンプしながら「~華やかに!」と歌うの、可愛かった。あとジャンプしながら歌い続けてるのが純粋にすごい。

★原作の腹痛に襲われるシーンで一番えぐいのはハーコートで、内野さん自身が「この場面本当にあるのかな?」と思っていたとパンフのコメントで言っていたように、本当にやるのかな?と私も思っていたのだが、本当にやってくれて「よくやった!」と思ったし、内野さんの演技も本当にえげつなくて(褒めてる)ここもめちゃくちゃ笑ってしまった、最高。

 

  • ブルーアーとクレイトン

ブルーアー役の里中さんは歌も踊りも演技もバランス良く上手くて、そのバランスの良さがなんかめちゃくちゃブルーアーだった。クールインテリくんと思いきや、クリケット大会で赤寮に勝った時に、たぶんマクミランと、二人で小さくガッツポーズをしてるのが本当に可愛い。

クレイトンは、原作だとシエルに対して小うるさい、その生真面目さが若干笑いを誘う結構地味なキャラクターという印象があったのだけれども、古谷さんが演じることで、ブルーアー先輩大好きの、すごく生真面目な純朴そうな青年という人柄が見えてきて、クレイトンというキャラクター、完全に舞台で新しく生まれ変わった存在だった。原作でも「クリケット大会で球にあたりそうになった女性を身を挺して守った」紳士エピソードとか、青の教団編で描写された純朴感とかはあったけれども、そういうクレイトンの隠れた優しさ、純朴さを全面に押し出した造型で新鮮だった。一方で、普段は眉を顰めてて神経質そ~な感じも良かった(しかし滲み出る純朴感)。

知性を誇る青寮らしく、ブルーアーもクレイトンも立ち姿がしゃんとしていて並んでいると非常に絵になる二人だった。里中ブルーアーはキレがありつつも動きがゆったりとして優雅であるのに対し、古谷クレイトンは動きが少し大げさにきびきびしていて、それが二人の性格の違いを物語っていて非常に良かった(特に古谷クレイトンは動きがキレキレすぎるのが愛おしくて、目で追ってしまう)。

だから、個人的にはこの二人が並んでいたり、セットでいるところが好き。クリケット大会で、クレイトンがブルーアーの真後ろに立って腕だけを広げて、「闇夜の梟」の演出を手伝っているシーンは、とにかくブルーアーを慕い、彼を立てることに心を砕いているクレイトンらしさや、二人の疑似兄弟関係の象徴感が感じられて良かった。「抜けない聖剣」を披露する箇所でも、ブルーアーがわりとゆったり剣を振り下ろすのに対して、クレイトンが大振りに激しく下ろしてるのも好き。他にもクレイトンは何かあるとブルーアーを守ろうとしていたり、最後の放校処分の見送りでも、一番最後まで先輩を見届け続けていたりして、本当の本当にブルーアーが好きなのだという純情さが伝わってきて、とにかく愛おしかった。ブルーアー、クレイトンの気持ちに応えてやって……。

★一幕前半のP4紹介曲(⑦)の後半?あたりの「ウェストン校~♪」で、クレイトンがキレキッレに動いてるの格好良かった。ここを映した初日配信のカメラワーク天才。

★クレイトンがシエルのファッグとしての仕事を褒めるところ、日替わりのボケなんだと思うんだけど、9日ソワレでは「床がすべすべでここでだったら僕はボブスレーができる!」(滑ってみる→案外滑らない)→「すべすべすぎると逆に滑らないんだな!」と言ってて可愛かった(更にボケようとしてセバスに止められてるのも可愛い)。ところで初日にボケ(「あ、ミカエリス先生!ご覧ください、この廊下を!綺麗すぎる!僕はこの廊下でだったら寝れる!(菓子を腹に乗せて寝る)」)をリピートしていたのは何でなんだろう(映像5周したけど分からなかった)。

★あと、この場面の最後、シエルが「ぺかっ!」と笑いながら敬礼ポーズをとるのだけども、クレイトンが腕の角度を直してて面白かった。腕の角度まで気になるクレイトン……。クレイトンは、「どこへ消えた デリック・アーデン」と歌う⑨でも、なぜかさりげなくチェスロックの制服を直してて態度が一貫してて良い(チェスロックは嫌そうにしてるのも可愛い)。

★二幕前半、クリケット大会でエドがフルリスペクトしてる時に、後ろで左からアンサンブルの方(名前分からない、ごめんなさい)・ブルーアー・クレイトンで人間ウィケットしてるの絵面が最高に良かった。ブルーアーとクレイトンもちょくちょくコミカルなシーンがあり、青寮が赤寮に勝ったよと聞く時に舞台下手で他の寮生たちと並んで「えーっ!?」と体を仰け反らせているのも可愛かった。

★ボートパレードでの敬礼シーン、初日と9日ソワレでは少し違っていた。ブルーアーは初日と変わらず帽子を胸にあてていたけども、クレイトンは初日はブルーアーと同じようにしていたのに対して、9日ソワレでは、帽子を左手で取って腰の部分にあて、胸には右手をあてて敬礼していた。どちらの方が女王への敬礼としてより丁寧なのかは分からないが(もしかしたらうっかりミスかもしれないが)、なんとなく二人の性格の違いに見えて面白かった。あとここでクレイトンが泣いてるの好き、本当に純朴なんだな~と思ってにこにこしちゃう。

★P4がウェストン校を去るまで、お茶会から少し時間があってそれぞれファッグとの別れを惜しむ時、クレイトンは自分の倫理観と戦いつつもブルーアーのことを否定したくなくて「どうして僕に打ち明けてくれなかったんですか」と俯いて泣いてるし、ブルーアーは気まずそうに雨が降りそぼつ窓の外を無言で眺めてるし、その内に餞別だと言いながらずっとクレイトンが読みたがっていた何か難しそうな哲学書(原語)をくれようとするんだけども、クレイトンはそんなものいらないって言ってる。話はそれきりになって、あの日に見送ったあと、クレイトンはブルーアーの部屋へ最終的な片付けに行くんだけど、色んなものが捨てられなくて全部自分のベッドの下に持ってきちゃうし、それで夜毎ブルーアーとのこと思って泣いてるシーン良かったね……うっ……(※エア感想)。

★放校処分を下されたブルーアーを見送るクレイトン、すごく哀愁があって良かった。別れの引き裂かれるような悲しみって、そこに至るまでに相手をどんな風に、あるいはどれだけ慕っていたのかという描写が重ねられないとうまく伝わってこないと思うのだけども、舞台開始から(チェスロックのようにストレートにではなく)影でクレイトンがブルーアーへの情熱が発し続けていたことで、4人を(というかブルーアーを)見送るクレイトンの心情がうまく伝わってくるし、最後まで見送り続けていることの意味も重く響く(ここは原作に描写なし)。ハーコートは泣いてたけど他の上級生に気に入られて早めに立ち直りそうだし、エドは精神的に自立性が高めかつ倫理観が潔癖だからショックだろうけどグリーンヒルを失ったことに関して多分そんなに引きずらない気がするし、チェスロックはふざけつつも内心めちゃくちゃショック、一方ででもしょうがねえよなととりあえず一旦割り切って何とか生活に戻っていけそうだけども、この古谷クレイトンだけはブルーアーを失ってこの先どうするんだろうなと心配になる……でもそういう古谷クレイトンが大好き。

  

 可愛い、マクミランもよくニコニコしていて本当に可愛い。マクミランは、原作からして、他キャラにように特に秀でた点はなく、ただ純朴であるという一点のみにその良さがあり、傍らの美少年たちが感情の縺れをやっているのをただ傍観者として眺め、自分は卒業後に平均的な幸せを平和に真っ当し、ある日風の便りで昔の同級生が死んだ、という手紙を受け取って泣く、というような、萩尾望都竹宮恵子が描く寄宿学校ものに出てきそうなキャラクター性がもともと愛おしかったんだけども、早川マクミランも本当にそんな感じ(でももうちょっと幸せになりそう、同級生が生きてそう)。

★ちょっと気になったところ。クレイトンがシエルを褒めるシーンの背後にマクミランもいて、取り巻きとして笑うところはニコッて笑ってすごく可愛いんだけど、それが無い時(演出からの演技指示がないような瞬間)は、マクミランならこういう表情してるだろうということをあえて早川さんが選択している表情に見えなかったので、人が演技している時の演技も磨いていって素敵な役者さんになってほしいな~と思った。

 

  • バイオレット、チェスロック

 可愛すぎて意味が分からない。詳しくは後述。

 

 田鶴グリーンヒル、映像を観たルームメイトが「めちゃくちゃテニミュの真田だった」って言っていたけど、原作よりも体育会系であることがかなり強調されていたのも相まって、なんかイギリス紳士というよりもヴィクトリア朝に生きる武士みたいだった。クリケット大会で「俺に、俺に、俺に……」と繰り返しラケットを振るシーンは圧巻ですごい! 体の筋力と肺活量やばくない?? あとバイオレットに頼まれてポーズをとっているシーンも、流石に時たまポーズを崩したり変えたりしてたけど笑、負担の大きいポーズを保っているのも凄かった(にしてもグリーンヒル、舞台全体を通してちょっといじられキャラ化されすぎているのが気になる。)

 個人的には、体育会系であることの強調が少し強すぎる感じもしたのだが、一方でそれだけ根が真面目で曲がったことが大嫌い、という一本気な性格であることも伝わってきて、だからアーデンとアガレスにも我慢ができずに発作的に殺してしまった、という因果関係がすごく納得しやすかった(原作だとその衝動性をもう少し抑えられそうなイメージだったので)。

グリーンヒルで一番好きだったのは、P4の回想で衝動的にアーデンとアガレスを殺してしまった後の表情。自分のやってしまったことに気が付いて絶望し、「自分だけが責任をとる」と言うも、近づいてきたバイオレットに右手のラケットを掴まれる時、とても苦しそうな、悔しそうな顔をする。自分ひとりで責任をとるつもりだったのに、バイオレットに友情を示されて、混乱した心はそれに絡めとられてしまう、その友情を辞退すべきなのに出来ない、心のどこかで甘えてしまう。グリーンヒルは潔癖な人だけども、ここではそれを保てないでいるというのが、グリーンヒルの人間としての弱さであり、リアルさで良かった。

 因みにここは初日映像では、グリーンヒルの苦しそうな顔と近寄ってきたバイレットの後姿が映るのだけど、ここのバイオレットの後姿が、傷ついた人間を慰めにきた動物みたいで可愛いのよね。それも相まってグリーンヒルの苦しそうな顔が、余計に苦しそうに見える。

 

  • エドワード・ミッドフォード

中島エドワード、すごい真面目な好青年で純朴そうな感じが好き。お茶会の場面で、ビザール・ドールたちから逃げる時にさりげなくグリーンヒルを優先して先に行かせるのがほんと紳士的で良かったね。

 

  • デリック・アーデン

 初日の時は、かなり不良感の強いアーデンになってて、原作とは結構違う印象を受けたのだけども、9日ソワレではヤンキー感が薄れて侯爵家の息子感が高まり始めてて良かった。千秋楽での最終的な変化が楽しみ。アーデン役の山口さんは、アーデン以外の時はアンサンブルとして学生を演じていたようで、学生服コスプレのセバスがミートパイを持って来て、ハーコートに「今の人、すごく落ち着いてなかった? 何だかお父さんみたいな!」と言われて、「はあ? 大人が制服着てこんなところうろついてるわけねえだろ、変な人じゃん!」と言うのが年相応の男子学生感あっためっちゃ好き笑。

 

  • ヨハン・アガレス

 ハーコートの例のシーンと同じように、どうするんだろ?と思っていたのがアガレス先生。高い所から勢いよく落ちて受け身をとれ、歌も歌えて、かつ2・5次元のビジュアルを持てる人材なんてハードル高すぎでは?と思っていたのだけども、高橋アガレス、完璧だった。特に凄かったのが、お茶会後半(P4の回想後)で舞台後方から飛び出してきて一回転?しながら舞台前方に着地するところ。アクションとして普通にめちゃくちゃ迫力があって格好良くて、その後のセバスチャンとの殺陣でも動きがキレキレで素敵だった。あまり殺陣のある舞台を観ことが無かったので、役者さんの良さはだいたい歌・芝居・ダンスで考えることが多かったんだけども、こういう格好良さもあるのかー!って新世界を見た気分。

 あと葬儀屋に「小生の最高傑作なんだ」と紹介されてるところで、虚ろそうにしてるの、美人度が高かった。

 

【舞台の感想いろいろ】

〈チェスロックとバイオレットの親密性〉

 メディアミックスされる時、その時々の作り手の解釈や好み、あるいは演者の力によって、原作よりもぐんと解像度の上がるキャラがいるけども、今回の舞台では紫寮のチェスロックとバイオレットがそういうキャラクターだったように思う。チェスロックとバイオレット、まじで生きてた。

 原作では単に疑似兄弟関係であるというだけで、では具体的にどういう関係かという肉付けは薄かった印象(根暗そうなバイオレットがなぜ陽キャっぽいチェスロックをファッグにしているのか、そのことがあまり見えてこない。いやまあチェスロックは明らかにいい奴そうなのだけども)。

 けれども、舞台では、お互いのどこに惹かれ合っているのか、なぜこの相手と一緒にいたいのか、この相手と一緒にいることで何が良いのか、そういうことがきちんと分かるように、バイオレットとチェスロックの親密性が作られていて、それが本当に良かったなと思う。単純に寮兄/寮弟としての主従的関係である(マクミランが「主従関係って言うよりも校内限定の兄弟関係って感じかな」と言っていたけど、どう考えても主従関係では……?)を超えて、チェスロックは掛け値なしにとにかくバイオレットという人間を本当に尊重していて大好きなのだと伝わってくるし、こういうすごく愛の深い人だからバイオレットも自分の側にいるのを許しているというか、心を開いて一緒にいるんだなということがすごくよく分かる。バイオレットが心から信頼できる相手や、バイオレットをありのまま尊重してくれる人は多分そんなに多くはないだろうから、学生時代にチェスロックに出会えて本当に良かったね、という気持ちになる。

放校処分になり、青の教団という居場所も失ったバイオレットを、チェスロックがどうにかこうにかお金を工面して学校近くの安アパートを借りて、そこに住まわせて、毎週週末に外出許可を得て世話しに行く話めっちゃ見たい、君たちが竹宮恵子萩尾望都世界の住人ならそうなっている。

 ★チェスロック、バイオレットの忠犬か?ってぐらいバイオレットに引っ付いてて可愛い。白鳥宮のお茶会場面ではチェスロックは大体バイオレットが座るソファの隣を陣取っているか(これは他のファッグも同じ)、バイオレットが他のところにいると(舞台前方で座り込むなど)、そちらへやってきて肩に手をかけてやったり、その場で話をしたりしている。他の場面でもバイオレットが階段に座り込んでるとチェスロックが必ずと言っていいほどそちらへ近寄るんだけど、全体的にバイオレットが好きで構ってほしくて近寄っていくというよりも、大好きなバイオレットを一人にしたくないとか守りたいとかそういう騎士的な精神を感じる。一方で、逆にチェスロックがいる場所(もたれかかっている階段など)にバイオレットがやってくることもあり、バイオレットもチェスロックといると安心するのね、良かったね~~!!!!とにこにこしちゃう。

 〈以下、一幕でチェスロックがバイオレットを気にかけているシーン覚えてるとこだけ備忘録〉

  • P4紹介曲(曲目リスト④)、赤・緑・青・紫の順番で寮紹介がされる時、緑寮のターンの時、下手階段から中央階段にバイオレット移動、チェスロック、慌てて追いかけて声をかけて何か一言二言話す。
  • 白鳥宮お茶会1回目。バイオレット、舞台上手前方に板付き、変なポーズのグリーンヒルを見つめてる。チェスロック、バイオレットのソファ近くに板付き、バイオレットをじっと見つめてる。バイオレットが何か飲み物を実験をした後は片付け、グリーンヒルの大声で飲み物をガウンにこぼし、絞りに舞台前方に来たバイオレットに声をかけに行く(見切れてる部分もあったのであくまで恐らく)。9日ソワレでは、バイオレットが調合実験→ソファに移動し飲む→テーブルのポットから紅茶を足す→美味しくないのか捨てる、捨てた時に濡れたのか(あるいはグリーンヒルの大声を聞いてだったのか)ソファに座ったままガウンを絞る(の流れだった気がする)。
  • 白鳥宮お茶会3回目(シエル参加)。アーデンの行方を知っているのではないかということでシエルがバイオレットの周りをうろうろ。チェスロック、それを警戒し、バイオレットが座るソファと、欄干の外側に立つシエルとの間に立つ。バイオレットの絵を覗き込みながら、グリーンヒルを指さし笑う。やがて、バイオレットの絵が披露されて独創的なセンスに全員微妙な顔をするが、チェスロックも微妙な顔をしている(バイオレットの絵は見ているはずだから、この微妙な空気が嫌だったのか?)。「俺にポーズをとれと言いながら全く描いてないじゃないか!」と怒るグリーンヒル、「僕はポーズを取ってって言っただけ」と言うバイオレットに更に怒って近づこうとする時、チェスロック、止めようと近づく(実際にはシエルが止める)。この後、舞台横でちまちまスケッチブックを片付けてくれたエドがチェスロックに渡すも、チェスロックは片付けておいてもらってガンをつける(本当に仲が悪くて笑う。P4紹介曲でも下手階段によりかかっているチェスロックは奥から登場するエドに足を出して転ばせようとしている)。バイオレット退場、チェスロック、その後を追って退場。

 

★二幕のクリケット大会は、チェスロックがバイオレットを慕う気持ちが直接台詞として出てくるのが本当に良い。二幕の入場行進の曲の時に、バイオレットがひたすら「面倒くさい」とか「怠い」とかやる気なさそ~な感じなところを「しゃーねえっす!」と全肯定してくれるし、バイオレットが少しやる気を見せると(「でも……」)嬉しそうに「やります?」と返して、でも「やっぱめんどい」(眠い?)と言っても「しゃーねえっす!」って返してくれてまじで世界で一番いい子か???(因みに一発の「しゃーねえっす!」、初日だと指で目を縁どっていて、9日ソワレで宙を指さす?的な別の動きをしていた気がするけど気のせいかな)。

 ★試合開始直前、グリーンヒルに向かって「俺らの牙で噛みちぎってやんよ」と啖呵を切った直後に「ですよね!?バイオレット先輩」と確認とるのも可愛いし、バイオレットがお絵描きに夢中なのを見て「お前らなんてバイオレット先輩が手を下すまでもねぇんだよ!」とフォロー入れるの、めっちゃ愛だし、バイオレットの社交性の低さを完璧にフォローするファッグとしての有能さがやばい。チェスロックはバイオレットのファッグになるために生まれてきたの???

 ★試合終了後は、バイオレットが試合中の自分を描いてくれたということをめちゃくちゃ嬉しがってるのも可愛い。チェスロックはいつでもバイオレットのこと見ていたり守ったりしているけど、バイオレットはそういう風に分かりやすくチェスロックへの気持ちを出さないから、この絵に描いてくれるというのはバイオレットの珍しい(しかも濃い)愛情表現だったんだろうなと思う。バイオレットの絵を見た時の感想も日替わりなのか、初日では「描き込みえぐくないっすか?」、9日ソワレでは「尊い……!」だった。いくらバイオレットが描いてくれたからって自分の肖像を尊いって言うのもなかなか面白い感性だなと思うけど笑、バイオレットが自分を描いてくれたという行為自体が「尊い」なのかな。「僕、運動苦手なんだよね」「しゃーねぇっす!」(小首傾げて返事したり、ハイタッチしたりしてるのまじで可愛い)「ナイスファイ」という締めのやり取りもまさに尊い……。

 ★このチェスロックを描くバイオレットの動きも良い。緑寮との戦いの間、バイオレットは球が飛んでこない場所をずっと移動しながらずっとチェスロックを見て絵を描いてる。チェスロックが動くとバイオレットも彼を追って動くから、この「チェスロックを描く」という行為にバイオレットがすごく真剣であるということが伝わってくる(試合中のチェスロックはもちろんそれには気づいてない)。で、バイオレットはこの絵の仕上げを、実はグリーンヒルが試合最後の球を打つ瞬間にやっている。ラップの字幕が投影されるスクリーンの後ろに立ち、グリーンヒルが「俺に打てない球はない!俺に、俺に、俺に……」とラケットを振り続ける動作に合わせて、バイオレットもスケッチブックを高く掲げ、ペンを持つ腕を振っている(最後の最後、「俺に打てない球はない!」の一振りと、バイオレットの一振りのシンクロは見事なので生で観る人はぜひ確かめてほしい、おそらく円盤の全景映像収録まで映像では断片的にしか観られない)。一球入魂の裏で一筆入魂をしているというギャグ的な演出だけれども、これは1つの場面で生身の人間が各々違う動作をすることで表現を豊かにしていく舞台ならではの表現でめちゃくちゃ好きな演出の1つ。何よりも一筆入魂するバイオレット可愛い(そして喜ぶチェスロック)。

 ★試合終了後、青寮対緑寮の時には2人はベンチにいるのだけども、この時も端で小芝居してて可愛い。チェスロックは音楽に合わせて体を揺らしていたり、バイオレットは案外試合の球筋を追っていたり(でも身の危険を感じる時は必ずスケッチブックを頭に乗せててこの仕草が可愛くて。あとはバイオレットが絵を描いて、それをチェスロックが小さく拍手したり、拝んだりもしていた。

途中、バイオレットの帽子が下に落ち、チェスロックと二人で、真下にいた審判役のレドモンドに拾うよう急かすも、レドモンドはきちんと踊ってから返していたり、そこからまた落としてやっぱりレドモンドが歌うか踊るかして手が空いたあとに返してもらったりしてて可愛かった(この時、帽子がないことにバイオレットもチェスロックもかなり慌てて、それに対してレドモンドは悠長にしてる、という対比も良かった)。

 ★お茶会の時に、チェスロックがバイオレットを守るかなー?と思って(クレイトンはよくブルーアーを守っているので)結構目で追ってみたんだけども、この時は案外そうでも無かった。チェスロックはバイオレットに近づくのではなく、ビザール・ドールそのものを押さえに行っていた。あとバイオレットは別に運動得意じゃないけど、面倒くさがりとか痛いのは嫌だ的なメンタリティで自分の身を守る動きは結構得意っぽい(クリケット大会で必ず頭部をスケッチブックで守ったり、緑寮対紫寮の試合開始直前に緑寮の隊列が過ぎ去るまで前に進むのを待ったりしてる)。

 ★キャストさんについて。福澤さん、ダンスのキレが凄すぎて、チェスロックがメインで踊るシーンは観ていてすごく気持ちよかったし、群舞でも思わず目で追ってしまう(1人だけ現代からヴィクトリア朝にタイムスリップしたのかな的な異次元感があった笑)。あとキレが凄すぎて、この人をファッグにしてるバイオレットはただ者ではないな感が漂うのが面白かった笑。

後藤さんは、個人的には声がすごく好きだった。芝居の時も勿論なんだけど、歌うと、話している時のトーンが嘘みたいに朗らかで伸びのある美声になるのが、ギャップもあり良かった。衝動的に殺人を犯してしまったグリーンヒルに近づき、凶器のラケットを掴み去る時に「色とりどりで 鮮やか ウェストンコート」を歌うところが声の綺麗さが生きていて好き、めっちゃ好き。

後藤さんは動きも好き。バイオレットならこう動くだろうなという説得力がすごくあった。猫背で手はいつもズボンに突っ込み、座る時は自分を守るようにして小さく纏まって座り、仕草は基本的に気だるげなのだが決して下品ではなく、内気な箱入り息子って感じ(シエルがお茶会に持って来た籠を開けて中を確かめていく動作は、微妙に品のないことするんだなと思ったけど可愛い)。踊る時に、他のキャラが正面向いてるのに首をクッとあげて相手を見下ろすような頭の角度にしたり(更にそこからクッと下を向いたり)、他のP4が膝を曲げずにスッと姿勢良く立っているのにバイオレットだけ猫背だったり、O型に屈脚してから上に伸びあがるとかしてて、基本の振りからは微妙に逸脱していく感じがめちゃくちゃバイオレット感あって好き。

 バイオレットのキャラクターとして、「いわゆる“普通”から少し離れたところにいる」ということを、あからさまに奇怪なことをさせるのではなくて、彼の仕草、動きそのもので表そうとした選択も良かったし、(私の記憶の限りでは原作にはそんな具体的には描かれなかった)バイオレットの仕草をここまで肉付けたしたのも凄いし、パンフで後藤さんが「バイオレットらしい動きを研究したから端にいる時も観てみてね」とコメントしていたので、本当にキャストさんの努力や研究の賜物なんだろうなと思う。気が早いけど、青の教団編ではバイオレットが準メイン的な位置になるのでこちらのミュージカル化もキャスティング後藤さん(とチェスロックはもちろん福澤さんだし、他のP4とファッグたちも今回のキャスティング)でお待ちしてます……!という気持ち(でも緑の魔女編も絶対に観たい)。

 ★チェスロックとバイオレットの親密性はすごく可愛くて、個人的にはこれだけでも舞台化を十分に楽しんだ!という気持ちになるんだけれども笑、それだけではなくて物語として、舞台として話を複雑化する効果を持っていたように思う(この辺はブルーアーとクレイトンの関係もそうかな)。

寄宿学校編は、生徒失踪の謎を解くセバスとシエルの潜入調査、ビザール・ドールの完成度を高めたい葬儀屋の目論見、ウェストン校の伝統守りたいP4の秘密という3点が絡み合って話を構成していてこれだけでも結構複雑なんだけれども、ここに舞台ではP4やファッグたちにもそれぞれの心と人生とがあるというドラマがより深い形で追加されることで、もともとの3つのエピソードの重みも増したように感じる。P4やファッグたちに人格が生まれれば生まれるほど、シエルとセバス、あるいは葬儀屋の振る舞いは残酷に見えるし(そのことによって悪の貴族として、悪魔で執事として、死に逆行する死神としての各々キャラが立つし)、P4の殺人は決して許されることではないのだが人間だからそういうことも当然起こりえるし、そしてそうやって起こった間違いは本当に悲劇であるという雰囲気が高められていた。

 

〈P4の悲劇性に血が通う〉

★アーデン殺しを巡るP4の心理描写がすごく良かった。監督生に選ばれ自分たちがこの学園を運営していくのだという喜びとプライド、彼らの清らかな世界観を崩すアーデン、グリーンヒルの咄嗟の殺意、一緒に罪を引き受ける他の3人の友情と、それだけには留まらない感情と。これらのP4の心理は、要素としては原作でも描かれていたけれどもわりとあっさりしてた。けれども、舞台ではアーデン殺しの際に、心理的葛藤を語る曲を4人の合唱として歌わせることで、4人の心の結びつきや、ただ狭い鳥籠のなかで潔癖であったが故の不幸であったのだということがすごく伝わってくる。ある言葉とあるメロディとが結びつくとき、その言葉を普通に話す以上の意味がそこに生まれて、ミュージカルというのはそういう作用のもとに物語が紡がれていくものだと思うけども、P4の心理描写はそういうミュージカルの特質を上手く生かしていた。

 彼らが何よりも伝統を尊ぶ人間であり、その伝統を遵守したがために(まさに監督生の鑑ではないか)秘密を抱えた存在である、ということがオーバーチュアから曲を通して繰り返し語れられていた。そのことによって、P4は学校に忠実であるからこそP4になれたのであり、学校(の伝統)に忠誠を誓うことを若い青年に強要する学校のシステムこそが、彼らに殺人を犯させたのだという悲劇性が高まってる。

 原作だとP4の切迫感みたいのをそこまで濃密に受け取れなくて、「人を殺しておいて何を言ってるんだ?」というシエルの言葉通りな印象を受けた。けれども、舞台だとP4にはP4なりの理屈や立場があり、そして心理的に追い詰められているのがはっきり分かるから、シエルのその正論が暴力的に聞こえるし、P4の告白を聞いた小西シエルは何かに耐えるようにその言葉をぶつけるという演技が、この言葉が単なる一般論ではなく、兄を殺されたというシエルの壮絶な経験、そういう個人的な立場から発されていることを伝えてきていて、ここがP4とシエルの論理や立場のぶつかり合いになっていることが感じられてとても良かった。

 ★けれども、P4の選択は本当に「伝統」を守る正義であったのか? 無論、人を殺しているから正義ではあり得るはずはないのだけども、では「伝統」を守る選択として「学校の闇」に染まった存在を排除するという選択は果たして意味があったのか? 結論から言えば、ほとんど意味がなく、P4の正義はあくまでも学校に洗脳された青年たちの、解像度の低い正義感としか言えない。

 アーデン殺しの回想に入る直前、聖ジョージのドラゴン退治のエピソードが引用され、「根本を絶たねば厄災から逃れられない 僕らはそれに従ったまでだ」とアーデン殺しを正当化するための理屈をブルーアーが語る。しかし、アーデンとアガレスは彼らさえ排除してしまえばウェストン校から「厄災」が消えるという存在であったのか? ウェストン校の異常性は「校長がお決めになったことだから」という台詞を学生たちが繰り返すことで演出されているが、アーデンとアガレスのような存在が生まれてしまうのは、このような「伝統」を尊ぶだけで実質的には思考停止な学校の状況にあったのではないか。つまり、ウェストン校の真なる「厄災」は、アーデンとアガレスといった個人ではなく、生徒の親が寄付金を積めば監督生になれる、そして教師もまたそういう生徒と癒着してしまうというような、学校の運営システムの欠陥そのものではなかったか。

 しかし、ウェストン校を輝かしいものとして眩しそうに眺めるP4に見えるのは、学校という社会が必然的にはらんでしまう歪さそのものではなくて、眼前の具体的な悪であるアーデンやアガレスだけだった。P4があの場で発作的に彼らを殺してしまったのは、「伝統」を汚す存在を排除したいという衝動だけではなく、ウェストン校がそういう闇を抱えてしまう空間であるということの強い否定のためだったのではないかと思う。けれども、いくらアーデンやアガレスという個人を排除したところで、彼らが強い

否定という形で認識した後者の事実は存在しているわけで、それがある限りはまた第二のアーデンやアガレスが生まれてしまうということ、だから真に絶つべきはそうした存在を生み出してしまう学校の運営システムの暗部であるということ、そこを見通せずに(そしておそらく今も見通していない)個人を殺して正義を遂行した、と思っているのは、底の浅い正義感としか言いようがない。

 けれども、だからこそ彼らの悲劇性が際立つのだと思う。言ってしまえば、P4は行うべき正義を勘違いしていたわけだが、この勘違いが生み出す悲劇こそが、人間は本当にどうしようもなく愚かで、取り返しがつかなくて、でも人間ってそういう生き物だよねということを語るドラマとして面白い。演出の松崎さんがパンフで「『黒執事』って多くの台詞にダブルミーニングがあったり、人間の愚かさや滑稽さが喜劇的であり悲劇的あるっていう描き方をしていて、演劇でいうと非常にシェイクスピア的な魅力がある」と言っていたけれども、寄宿学校編は特にそういう性格が強く、芝居向き話で、舞台として見応えのあるものだったなと思う。

 ダブルミーニングと言えば、一幕ラストの曲の、「誰にも汚させはしない」(P4)→「誓って守るフェアプレイ」(ファッグ)という流れが面白かった。P4はクリケット大会のことを歌っていると思わせておいて(だからこそP4の後にファッグ達が「誓って守るフェアプレイ」と受ける)、実はアーデン(とアガレス)殺しのことを、再び自分たちの守る秘密として受け止め直す覚悟(そのために校長に会おうという決意)を歌っているんだよね。

 ★アーデン殺しを一番現実的というか冷静に受け止めていたのはバイオレットだったのかなと思う。お茶会で「僕たちが殺した」と告白の口火をきるのもバイオレットだし、グリーンヒルが衝動的にアーデンとアガレスを殺した時に、真っ先にアーデンの死体に近寄ったのはバイオレットだった(因みにこの時、ブルーアーは腰を抜かし、レドモンドは顔に付着した返り血を確かめていた。この二者の演出は原作にはなく舞台で追加された演出だが両者ともすごくらしい)。そして、グリーンヒルの罪を一緒に引き受けようと、彼から凶器のラケットを真っ先に引き取ったのも彼だった。

 何よりも、シエルにお茶会でアーデンについて尋ねられた時にバイオレットは「とにかくアーデンは変わってい“た”」と過去形で言う。ここは他のP4も過去形でアーデンについて語っているのだけども、バイオレット以外は特に今は関わりないよという意味にもなるからそんなに不自然ではない。けれどもバイオレットだけは自分が監督生をやっている紫寮に転寮したことになっているのだから、本当に隠したかったら(アーデンが現在も在学していると見せかけたかったら)「変わってい“る”」と現在形で言うんじゃないかな。

 因みに原作では「殺した」は誰の台詞か明示されない、一番先に死体に近寄って息の有無を確認する/凶器を手にとるのはバイオレット、「変わってた」という台詞も過去形でバイオレットが言っているので、ここら辺のことで舞台でバイオレットに新たに追加されたのは「僕たちが殺した」という台詞だけになる。けれども、この台詞があったことで、バイオレットの他の挙動といういくつかの点が線で結びついたような印象と、バイオレットのキャラクター造形としての深まりが増したような感じがあって、この台詞をバイオレットが言ってくれて良かったな~~!!という気持ち。

 

 

〈グランドミュージカルから2.5次元ミュージカルへの路線変更〉

 結論から言えば、この路線変更は、キャスト総入れ替えで黒執事ミュージカルの新作を作ること、それも寄宿学校編の舞台化である以上は、正しい戦略であったと私は思っている。私自身は、2.5次元に詳しくないが、①ツイッターでは、今回のミュージカルはかなりテニミュ風であり、グランドミュから2.5次元ミュへ路線変更されたという感想が散見された、②テニミュのオタクと一緒に観たら、めっちゃテニミュだ!!ってはしゃいでた(因みに二幕について「(ラケットを)握ってなければまあ行けると思ったんだけども、握っていたので駄目だった」という名言を残してくれた)、③私自身も、リコリス/サーカス/カンパニア(特にカンパニア)を観た時には、「えっ東宝ミュージカルじゃん!」と思い、また今回は開始10分で「テニミュだな(正確には非グランドミュージカル的だな)」と感じたという3点に基づき、グランドミュージカルから2.5次元ミュージカルへ路線変更されたと判断した。

 ★黒執事ミュのテニミュ

 黒執事はゴシック的な雰囲気を売りにしているコンテンツであり、ミュージカルもその再現に努めてきたと言える。だから、路線変更に動揺するのも非常にナチュラルな反応であると思うし、また好みが分かれるのも当然だろう。私自身も、古川セバス時代のゴシックの雰囲気漂う、グランドミュージカル感が好きであり、この寄宿学校編が原作からしテニミュ(ないしテニプリ)のオマージュであることを知っていたので、(テニミュ自体は完成度の高いミュージカルとして好ましく思っているが、それとは別に黒執事のミュージカル化として)これまでとは毛色が大きく異なるであろう今回の舞台をどれだけ好みの作品として受け取められるのかあまりに未知数で、初日配信を観るまでチケットを買う決心がつかなかったほどだ(だから、路線変更への動揺はあったかもしれない私の気持ちでもある)。

 けれども、2.5次元ミュージカルが原作の忠実な再現を目指すものであれば、原作のテニミュオマージュはそれこそ忠実に再現されるべきものであり、必然、舞台のテニミュ化は避け得ない。だから、原作の舞台化という観点からすれば、本ミュージカルは漫画『黒執事』の忠実かつ誠実な舞台化であったと評価していいだろう。そしてこれまでのグランドミュージカル風も、もともと原作の話がグランドミュージカル向きであったということも大きいように思う(だが、それをあそこまでの舞台に仕立てたのは勿論、舞台に参加した役者、スタッフの力である)。

 黒執事ミュージカルプロジェクトの動き、舞台化の方針決定やキャスティングの決定がどういう順序で行われるか私は分からないが、寄宿学校編はキャスティングの制約も舞台の方針を決定づける上で重要だったのではないか。古川さんをキャスティングできるかどうかもそうだが、寄宿学校編は原作の登場キャラクターからして、(10代の学生ができるような)若く、美しい男性俳優を、セバスチャン、シエルの他に少なくとも9人(ウェストン校生、ソーマ)をキャスティングする必要があり、これは今までの舞台とは全く異なるキャスティングの仕方である(これまではセバスチャンに敵対する美形キャラとして1~2人美しい男性俳優をキャスティングし、その他、キャラクターがバラエティに富むので求められるビジュアルや技術は幅広く、結果的に様々な年齢やキャリアの俳優が黒執事ミュのカンパニーを形成していた)。

 とすれば、(予算もあるので)必然的に2.5次元で活躍する若手男性俳優をキャスティングすることになろうし、ならばその俳優のファンが今回の黒執事ミュの観客として決して少なくはない割合を占めることになる。だとしたら、黒執事初見者にも親しみやすい内容にしようということで、いわゆる2.5次元的な方向での作品作りが考えられていたとしても不思議ではない。また、舞台のメインキャラクターのほとんどが若手俳優で占められる以上は、(グランドミュージカルのような)音楽的な追求、あるいは演技の追求というのは(役者としての若さや個々人の得意不得意もあるため)なかなか難しいだろう(実際、歌や芝居を上手いと感じる場面も多かった反面、課題が残ると感じる場面も多かったが、舞台にとにかく勢いがあり、若手俳優たちのエネルギーに圧倒されて楽しむ舞台でもあると思った。楽しいからオールオッケー!という気持ち笑)。

 また、クリケット大会は完全にテニミュだった印象だが(そして何故かしれっと混じるヒプマイ)、それは黒執事をミュージカル化するにあたっての怠惰やある種の媚びでもなく、むしろテニミュという文化が約20年近くかけて練り上げてきた「スポーツをミュージカルとして面白く、美しく見せるためのあらゆる工夫」を非常に上手く利用しており、寄宿学校編の忠実な舞台化としての精度を上げるためのほとんど最良の選択であったのではないか(クリケット大会は舞台にかなり人がいるんだけども、配置や役者の動線がすごく綺麗に出来ている印象)。

 2幕は、もともとテニミュ/ヒプマイの演出に馴染みがある、原作からしテニミュということを知っているかどうかで受け取り方に結構差が出そうな気がする。そもそもテニミュ化が問題になるなら、古川セバス時代のアバーラインとハンクスの漫才だってゴシック性という点から考えたらかなり異物感あったし(しかも漫才だからセリフがどうしても聞き取りづらい)、今回の真面目に芝居してギャグやるぞという振り切り方の方が個人的には好きだった。

 ★シエルを子役から成人役者へ

 これは寄宿学校編を舞台化するにあたり、ほとんど当然の判断であったように思う(成人でなくとも、10代後半ぐらいの俳優でも良かったとは思うが)。先述したように、これまで舞台化された話はキャラクターの年齢がばらけており、未成年のキャラクターは決して多くなかった。だから、シエルに子役をキャスティングしてもバランスが良く、また物語の進行的にもだいたいはセバスチャンと一緒に行動している、ないしはシエル以外のキャラが活躍する場面も多く、シエル役の芝居負担は(無論子役には大変なことだとは思うが、あくまで演じる場面の割合や求められる演技の幅を寄宿学校編と比べると)低めだった。けれども、寄宿学校編では、シエルはセバスチャンと別れて、単独でウェストン校生と接し続ける。舞台としては、P4が活躍する場面を除いてほとんど出ずっぱりとなる。だから、それをこなせる俳優をとなれば、必然的に子役よりも小柄な成年(直前)の役者になろうし、またシエルと同年齢~数歳年上なだけのキャラクターばかりでそこへ成年役者を多くキャスティングするとなれば(中には何人か未成年もいるが)、子役ではバランスがとりづらい(シエルが相当幼く見えてしまうだろう)。

 また、成人役者にすることで、シエルというキャラクターのできるものの幅が広がる。古川セバス時代では、ミュージカルでは主演の2人が掛け合って歌うというのは定番であるのに対して、シエルが子役であるためにそのパートは非常に少なかった(勿論リコリスでの「私はあなたの駒となり剣となる」や、カンパニアでの「私は執事、貴方は伯爵」といった楽曲はあるが、主従関係であり、ほぼ一緒に行動していることを考えれば、ここまで掛け合って歌わないのはミュージカル的には珍しい印象があり、ぜひ古川セバスには主人たるシエルと朗々と掛け合って歌ってみたほしかったものである)。

 それが今回では、他のキャラクターとよく掛け合って歌っており、非常にミュージカルらしい作りになっていた(特に、セバスチャンとシエルの主役二人のデュエットから幕を開けることが出来たのは、特殊な主従関係/これまで二人が体験してきた事件を手っ取り早く説明する必要があった今回の物語では、要領の良い情報処理であったし、導入として非常に美しい形だった)。また、テニミュに寄せていくのであれば、そして学校が舞台である群像的な物語であることを演出するためには学生たちの群舞はほとんど必然であったであろうから、その意味においてもシエルの役者は踊ることのできる必要があったと言える。シエルを子役役者から成人役者へ路線変更したことは、シエルというキャラクターについてこれまでとは異なる、舞台表現の可能性を拓いたものとして捉えるべきだろう。

 ★評価軸をずらすという戦略

 パンフを読むと、やはり前作までに対して自分たちはどうしていくのかということをカンパニー全体がものすごく考えていたのが窺えて、路線変更はわりと当然のことだったというか、新作の作り手に与えられた選択肢はほとんどそれしか無いだろうなという印象を受けた。

 ものを作り出す時、作り手がとりうる選択はいくつかあろうが、今回の黒執事ミュに限って言えば、主に「これまでのグランドミュージカル風を受け継ぎ、前作までと同じ土俵で勝負する(前作を乗り越えていく)」、もしくは「これまでのグランドミュージカル風を受け継がないで、前作とは全く異なる土俵に立つ」のどちらかだろう。これは、作り手側が観客にどのような評価軸を与えるかということでもあり、非常に重要な選択である。前者であれば「前作に比べて良い/悪い」、反対に後者は「今までの黒執事ミュとは違うけど、良い/悪い」という評価軸を生むことになろうが、前者に挑戦しての失敗は相当残酷なものになろうし(前作と同じ土俵に乗るためには古川さん自身をか、彼に匹敵する俳優をキャスティングする必要があり、またセバスチャンだけでなくカンパニー全体が歌も演技も相当に上手くなければならない)、そもそも原作からしてそれまでの舞台化された話とは毛色が異なっているため、言ってしまえばほとんど踏襲のしようがないのでないだろうか(仮に出来たとしても原作に忠実なものにはならないだろうし、踏襲するためにクリケット大会の様子を大幅に変えることになり、それはそれで原作と舞台の大会描写が比較されるだろう)。とすれば、原作に忠実に舞台化して、「今までの黒執事ミュとは違うけど、良い/悪い」という観点から評価される路線でやることこそが、新作を作る上での、最も妥当な線ではなかっただろうか。つまり、路線変更、新しい路線を打ち出すことは、前作とストレートに結びつく要素を削り、前作との比較という評価軸を無くすための制作側の戦略であったとひとまずは捉えてみる必要があろう。そこから良いと思うか、悪いと思うかは個人の好みである。

 

〈楽曲・舞台装置・照明〉

★楽曲

 きちんと要のところで歌い、芝居だけでは処理しきれない情報や説明が必要な事柄(ウェストン校の校風やファッグ代行業など)を歌にしたり、あるいはキャラクター達の心情を音楽化したりすることでかなり分かりやすくしていて、ミュージカルという形態を非常に生かしていたし、また曲の構成が綺麗だったように思う(セットリストを作ったら、一幕と二幕できちんと10曲ずつだったので驚いた)。歌も覚えやすいメロディや歌詞が多く、観やすい印象(個人的に観劇の帰り道に心のなかで歌って舞台の余韻に浸りながら帰るのが好きなので、ちょっとでも覚えやすい歌があるのはすごく嬉しい)(舞台を観すぎて歌を軽く覚え始めてしまった)。今回はアンサンブルまで全員男性で、総勢20人近くで歌う大合唱が多くてめちゃくちゃ迫力があって良かった。

 

★舞台装置、照明

 舞台装置もすごく良かった。前にどこかで(編集者のインタビューだったかな?)、舞台化にあたって衣装が黒いから舞台映えしないという悩みが初期の方にはあったらしいのだが、今回は舞台装置を白くすることで黒い服を纏う役者たちがめっちゃ舞台映えしていた。神殿のような雰囲気もあり、伝統ある学校としての荘厳な感じがよく出ていたと思う。また、役者の配置にかなり複雑な高低差をつけることが出来たり、キャラの移動空間が広く複雑な動線でキャラが動けたりして、そういう視覚的な見応えをこの舞台装置がもたらしてくれていた。ソーマがモーリスを追いかけまわす場面や、アーデンを探す歌の場面は、中央のダイヤ型のループ階段?が効果的に使われていて、本当にずっと追いかけまわしてる感があったり、アーデンの行方不明感がよく出ていたりした。白いループ階段と言えばエッシャーの絵を思い出すのだが、アーデン行方不明曲の終盤では何かが歪んでいく映像が白い階段全体に映し出されててこれもなんとなくエッシャー的な雰囲気を感じた(エッシャーの描く画面自体は歪んでないけど、そこでは本来ならあり得ないことが展開されているので、何となく「歪んでる」と私が受け取っているんだろう)。

 あと冒頭の振り返りメドレーのプロジェクションマッピングの使い方が好きだった。リコリスの場面では赤い花びらが舞台全体に舞っていてすごく綺麗で(映像よりも生の方が断然迫力あって鳥肌が立った)、続くサーカス編も屋敷が燃える瞬間が美しかった(ここは、ジョーカーが悠然と指揮→操り人形的なぎくしゃくした動きになるという演出も、サーカス団団長であるも、それは養父に利用されてそうしているというジョーカーが抱え込んだ二面性を端的に表現していて好き)。

 照明も使い方も私には新鮮だった。足元に設置された照明で役者を照らすのではなくて、客席に向けて光るようにしていて、役者に色をつけずに舞台空間の色付けしてる。どちらかと言うとミュージカルよりもライブ寄りの明かりの使い方なのかな?と思ったんだけども、どうなんだろうか(ライブというものにほとんど参加したことがないのでテレビとかで見かけた印象で書いてる)。

 

 

 路線変更は好みが分かれるだろうけども、個人的には非常に面白かった(面白すぎて勢いで生まれて初めて観劇レポとか書いてしまった。全部で2.8万字あるのびっくりする)。舞台にとてつもないエネルギーがあって、自分がお芝居が大好きで青春を捧げていた頃を思い出し、居ても立ってもいられず劇場に駆け込んでしまった。芝居というものが大好きだった、10代のころの自分を取り戻せたような気がする。

 原作の流れに忠実に行くのであれば、次のミュージカル化エピソードはドイツを舞台にした緑の魔女編になる。これは内容的にはむしろグランドミュージカル風の方が似合うので、今度はもう少しグランドミュージカル風に寄るのかもしれない(でも今回もかなり賑やかな楽曲やテニミュ風のトーンが多かったとは言えども、楽曲によってはきちんとグランドミュ的な雰囲気を持つものもあったように思う。一幕ラストの曲は、クリケット大会の6月4日を決戦の日と見据え、それぞれも思惑が絡み合う、良い合唱曲だった。『レミゼラブル』の「One Day More」を思い出す)。

 緑の魔女編も大好きな話なので、ぜひ舞台化してほしいと思いつつも、今回のP4とファッグ達が熱すぎるので本当に気が早いけれども、早く青の教団編が観たいという気持ちにもなっている。今後の舞台展開が本当に楽しみ。

植物になりたい

連れ合いと小石川植物園に行ってきた。言わずと知れた、東大の研究用施設である。

とは言え、中はピクニックに向いた平原、小ぶりのものや熱帯のものを育てる整備された温室、様々な木が植わっている森、そして瀟洒な洋館を望める日本庭園という、行楽地として非常に充実した、都心のオアシスとも言える空間だ。

 

 連れ合いと私が気に入ったのはシダ園だった。ネットをかけられ、石壁に囲まれた鬱蒼とした植物園の外れ。レースを思わせる繊細な緑葉が、地を這うようにあちこちから生えている。じめじめ、という言葉がよく似合う光景だった。

けれども、そこに漂っているのは、沈鬱さではなく、淡々とした自由のように見えた。植物園であるから当然、1つ1つの植物がのびのびと育つように計算されて、間隔を適切に保たれて植えられているというのはあるだろう。しかし、この小さな空間で多くの種類がひしめき合っているというのは事実で、でも植物たちは葉が触れ合うのも何かの縁とばかりに、ただただ静かに植わっていて。無論、彼らの空間に入り込んできた私たちに関心を払うこともない。

植物はある場所に植わってしまえば、そこから移動の自由はない。確か、星新一の小説に主人公の妻が植物に変身し始め、街路樹となっていくことが自由を奪われていくものとして描かれていた話があったような気がする。それを読んだ時、植物になるとはなんと怖いのだろうと思った覚えがある。

 鬱蒼と見えたシダも、その葉の繊細さ、鮮やかさに気が付けばとても美しく見える。しかも、自分以外の存在と交渉を持たない静謐なさまは「社会」というものに囚われた人間の私からすればとても自由にも見えて、「植物になりたい」という思いを呼び起こす。星新一は植物になるということを悪夢的に描いたが、一方、それを美的な夢として描いた作家に佐藤春夫がいる。

 

 佐藤は自身の美意識を追求した大正期の作品で文学史上に名を残しているが、植物化の夢を書いたのは昭和初期に発表した「のんしやらん記録」というSFである。いわばディストピアとも言うべきこの作品では、主人公がとある理由から薔薇に変身し、これが快いこと、そして美的なものとして描かれる。人間の植物変身譚は古くはアポロンとダフネーの神話から存在するが、近代で言えば、アール・ヌーヴォーの想像力がそこに与するだろう。

 アール・ヌーヴォーは19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパで

流行した視覚芸術の様式だ。アール・ヌーヴォーと言えば、すぐさまアルフォンス・ミュシャのうねるような髪を持つ女性像や、植物紋様の装飾などを思い起こすかもしれない。まさに、植物そのものや、それが持つ有機的な曲線を美的なものとして掲げたのがこのアール・ヌーヴォーという芸術潮流なのである。

 ミュシャ自身はアール・ヌーヴォーの作家と見做されることを厭うていたが、画面を植物紋様で美しく縁取り、女性たちを、植物を思わせる曲線で描いた彼の想像力がアール・ヌーヴォー的であることは疑いえない。そして、彼よりも一歩踏み込んだ想像力を見せる作家たちも存在していて、例えば顔は人間だが髪や下半身が薔薇であるといった、植物と一体化した人間を描いた絵を残している(数は多くない)。

 つまり、言ってしまえば、アール・ヌーヴォーは人体を植物の曲線美によって再構築した想像力なのである。そこには、植物の美しさへの憧れと、人体と植物の融合への夢が展開されている。佐藤春夫の薔薇への変身もこれに類する(しかし、物語後半では薔薇であることが悪夢としても描かれるので、そこには捻じれがあるのだが)。

 

 とすれば、人間である私が、その美しさに魅せられて植物になりたいと思っても何の不思議があろう? 21世紀、都会の真ん中で私はアール・ヌーヴォーの夢をうつらうつらと見ていたのだった。

 

言語と親密性

 言語によるコミュニケーションが出来なくなっても、親密で居続けたいね。

友人らの間で、少し前に話題にのぼったそうした在り方は非常に理想的だ。けれども、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではなさそうに思えた。

 

今日、学部時代の友人と久々に会った。会うのは彼女の結婚式以来、けれどもその時はゆっくり喋る時間は無かったから、実質的には約5~6年ぶりに彼女とじっくり話す時間を持ったことになる。

彼女と私は、学部時代は同じ部活(それは伝統あるもので、決してサークルというカジュアルな名前では呼ばないことになっていた)に所属していたことで、友人になった。現役時代は彼女が部長を務め、私が補佐役のような形になり、二人で色んなことを語り合った仲だった。

久々に会った彼女は、昔と同じように控えめに挨拶をし、ゆっくりと言葉を選びながら、それでも彼女の言いたいことに対して決して十全ではないように、色々なことを話した。私の記憶によれば、その様子は昔と変わらぬままで、彼女と話し始めた時、私の胸にはある種の懐かしさが去来した。しかし、その次には一瞬、もどかしさが頭をよぎった。

彼女とは3時間ほどお喋りをした。お互いの近況を語り合い、生活や仕事の悩みを共有し、のんびりと楽しく過ごした。けれども、それは、ふだん会っている友だちとのやり取りに比べて、何だか空白のようなものが非常に多いような気持ちになった。

何故なのだろう。その理由を考えてみると、彼女と私との間には、コミュニケーションの媒介として言語しか持っていないことにどうやら起因しているような気がする。言語ばかりが頼りであるとき、言語でやりとり出来たことだけがコミュニケーションの感覚を形作る。自分のあまりに言語主義的な感覚に愕然としてしまった。

 

しかし、これは一方で重要なことを示唆しているように思う。

もし言葉を語り合えなくなっても友だちでいよう。

その理想は、もしかしたら入念な下ごしらえが必要なのかもしれないということだ。全てが言語である必要はない。無いが、語り合えなくなっても親密で居続けるためには、何か違う形でコミュニケーションを取り続けるためには、言語によってある種の合意形成をしていくか、あるいは言語を補助としながらそれ以外のコミュニケーションを積み重ねていく必要があるのではないか。そうして、言語以外でコミュニケーションをとっているという感覚をお互いが十分に養って初めて、言語化の明晰さが無くとも、安心して会えるようになるのではないか。

 

語り合えなくなっても友だちでいよう。

語り合うことで形作られてきた親密性をそうしたものへ変貌させること、言語から離れた場所で構築し直すことはきっと不可能な夢ではない。無いけれども、それを達成するためには、そのような親密性を語り合い続け、そしてその中で色々なことを模索して漸く到達できる地平のように思える。

 

けれども、これは言語から離れようとして、結局言語に頼らざるを得ないということだ。私にはそんな矛盾がどうにも悔しくてならない。