言語と親密性

 言語によるコミュニケーションが出来なくなっても、親密で居続けたいね。

友人らの間で、少し前に話題にのぼったそうした在り方は非常に理想的だ。けれども、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではなさそうに思えた。

 

今日、学部時代の友人と久々に会った。会うのは彼女の結婚式以来、けれどもその時はゆっくり喋る時間は無かったから、実質的には約5~6年ぶりに彼女とじっくり話す時間を持ったことになる。

彼女と私は、学部時代は同じ部活(それは伝統あるもので、決してサークルというカジュアルな名前では呼ばないことになっていた)に所属していたことで、友人になった。現役時代は彼女が部長を務め、私が補佐役のような形になり、二人で色んなことを語り合った仲だった。

久々に会った彼女は、昔と同じように控えめに挨拶をし、ゆっくりと言葉を選びながら、それでも彼女の言いたいことに対して決して十全ではないように、色々なことを話した。私の記憶によれば、その様子は昔と変わらぬままで、彼女と話し始めた時、私の胸にはある種の懐かしさが去来した。しかし、その次には一瞬、もどかしさが頭をよぎった。

彼女とは3時間ほどお喋りをした。お互いの近況を語り合い、生活や仕事の悩みを共有し、のんびりと楽しく過ごした。けれども、それは、ふだん会っている友だちとのやり取りに比べて、何だか空白のようなものが非常に多いような気持ちになった。

何故なのだろう。その理由を考えてみると、彼女と私との間には、コミュニケーションの媒介として言語しか持っていないことにどうやら起因しているような気がする。言語ばかりが頼りであるとき、言語でやりとり出来たことだけがコミュニケーションの感覚を形作る。自分のあまりに言語主義的な感覚に愕然としてしまった。

 

しかし、これは一方で重要なことを示唆しているように思う。

もし言葉を語り合えなくなっても友だちでいよう。

その理想は、もしかしたら入念な下ごしらえが必要なのかもしれないということだ。全てが言語である必要はない。無いが、語り合えなくなっても親密で居続けるためには、何か違う形でコミュニケーションを取り続けるためには、言語によってある種の合意形成をしていくか、あるいは言語を補助としながらそれ以外のコミュニケーションを積み重ねていく必要があるのではないか。そうして、言語以外でコミュニケーションをとっているという感覚をお互いが十分に養って初めて、言語化の明晰さが無くとも、安心して会えるようになるのではないか。

 

語り合えなくなっても友だちでいよう。

語り合うことで形作られてきた親密性をそうしたものへ変貌させること、言語から離れた場所で構築し直すことはきっと不可能な夢ではない。無いけれども、それを達成するためには、そのような親密性を語り合い続け、そしてその中で色々なことを模索して漸く到達できる地平のように思える。

 

けれども、これは言語から離れようとして、結局言語に頼らざるを得ないということだ。私にはそんな矛盾がどうにも悔しくてならない。